寒中御見舞い申し上げます。皆様のご健康とご多幸を祈念いたします。
すっかりブログをご無沙汰しており、もうしわけありませんでした。
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昨年11月19日、母、藤井茂登子が昇天いたしました。
そんな年明けになり、新年のご挨拶を失礼させていただきました。 元気な母は、6月に90歳、卒寿を迎え、あと10年は生きたいと
希望を持った直後に9月に不調を訴え、検査入院。
あっという間に、急性癌により他界しました。
潔い母は「人生に悔いなし!只、14歳から書き綴った短歌を纏めておきたかった」と、10月の中ごろポツリと申しました。
私たちは、それなら「私達が作くろう」と。 私が実家に戻って探し出し、10代の纏めたノートと晩年に色々な雑誌に投稿していた短歌のみ探し出すことができました。
私たち夫婦と娘夫婦が手分けしてデータを打ち込み、娘婿が編集を担当し、母は孫娘に「私の大好きな花みずきを描いて欲しい」と。永眠の10日前に2冊だけ製本して母に手渡す事ができました。大変な喜びようでした。
「自然とともに」と言う題を母が決め、それに合うようなサラリとした短歌だけをチョイスすると言う校正を死の前々日まで頑張って休み休み行いました。
11/18に印刷に回したことを喜び、翌日の夜、私の目の前で火が消えるように1分前まで話していてスーッと息絶えました。静かなで穏やかな昇天でした
母は裕福な造り酒屋で誕生しましたが三歳で親に死に別れ、経済的には裕福でしたが、他人に育てられた寂しい幼少期を過ごしたようです。いつも明石師範学校時期が楽しかったと申していました。
北兵庫で結婚し、私たちが生まれ、田舎の長男に嫁として教師として働きながら勤めてきました。いつも、皆の為に頑張っておりました。「人間だから働く事だけしたら行けない。毎日を楽しまなければ。その為には文化的なことを習得し、それを基本にして生活しなければ」と常々申しており、日々の生活の身だしなみ、設え、茶道、華道、香道、短歌が生活に溶け込んでおりました。
80歳過ぎてもバレーボールをし、若い女性と楽しくつき合わせていただいていました。身体障害の方々へのボランティア、母だけにしか心を開かない方、母の死をどのように知らせてくださったのでしょうか。
自閉症の子供を家に呼んで勉強を教えたり、人には言わない人助けを生涯しておりました。父の認知症に5年間、母が一人で面倒をみていましたが。私たちが手助けするその間にもボランティア活動に時間を割いておりました。
母は幼少期から他人の間で生きた経験から人を思いやる優しさを身を持って実践してきました。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を思い出します。
そんな母を娘である私は捉えていますが、娘には甘い母でした。
皆様に見せていた顔はどんなだったのでしょうか。お聞かせいただけると嬉しいです。
昨年には、我が家には嬉しい出来事もありました。
四月には長男、今川岳が大阪に日本料理店「靱本町がく」℡06-6479-3459(母の書を看板に)を出店し、半年後にはミッシュラン星一つを頂戴したことが母への大きな贈物となりました。
私はの昨年は母親業と娘業が多忙な年でした。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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