花のたましい
散ったお花のたましいは、
み仏さまの花ぞのに、
ひとつ残らずうまれるの。
だって、お花はやさしくて、
おてんとさまが呼ぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
蝶々にあまい蜜をやり、
人にゃ匂いをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの、
御飯になってくれるから。
おてんとさまが呼ぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
蝶々にあまい蜜をやり、
人にゃ匂いをみなくれて、
やはりすなおについてゆき、
御飯になってくれるから。
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<解説>矢崎節夫
1995年1月17日の神戸を中心とした阪神・淡路方面の大震災の後、一人の小さい人の言葉を聞いて、“いのち”ということを深く考えさせられました。
テレビのニュースキャスターが避難している人たちに、「今、一番ほしいものはなにか」をたずねた時のことでした。
水がほしい、食べ物がほしい、家がほしい、と大人はみんなこう答えました。
小学生が一人いました。「あなたが今、一番ほしいものはなに?」キャスターがたずねました。
小学生は、大人では考えられないことを答えました。
「友達のいのち」
なんてすごいことを、この小さい人はいえたのでしょうか。
大人たちはみんな物をいったのです。待っていれば、必ず戻ってくる物をです。もちろん、そういった大人の人たちの気持ちは、私も大人ですから、よくわかります。その場では、きっと私もそういったでしょう。
しかし、この小さな人は、二度と戻ってこない「友だちのいのち」が、一番ほしいといったのです。
理不尽にも、一瞬のうちにいのちをとられたくやしさ、怒り。小さい人のひとことの中に、いのちの悲しみの本質を知らされました。
いったい、“いのちは、どころからきて、なにをし、どこへいく”のでしょうか。
150億年という時間の中では、宇宙からきて、宇宙に帰っていくのでしょう。個人としては、母から生まれ、大地に帰っていくのでしょう。
いのちの悲しみの本質は、いつか終わりがあるということです。
この終わりが考えられる終わり方でなかった時に、くやしさや怒りが、残された人の中に残るのでしょう。
みすゞさんの『花のたましい』を読むと、「どこからきて、なにをし、どこへいくのか」の「なにをし」、つまり「どう生きるか」がすうっとわかって、心がらくになります。
〔だって、お花はやさしくて、/おてんとさまが呼ぶときに、/ぱっとひらいて、ほほえんで、/蝶々にあまい蜜をやり、人にゃ匂いをみなくれて、〕
と、みすゞさんは歌っています。
前に、私は人であり、花でもあると書きましたが、ならば、花である私は、こんなにも美しく、善意に生きられるようになっているのです。そうだといいな、とうれしくなります。そして〔風がおいでとよぶときに、/やはりすなおについてゆき、/なぎらさえも、ままごとの、/御飯になってくれるから。〕
自分の行為によって考えられない終わり方をし、まわりの人にくやしさや、怒りを残さないために、生き死にを完全にやりとげたいと、小さな人のひとことから、今、心から思っています。